湖と発酵の恵みを味わう一日 海津「湖里庵」で出会った鮒寿しの真髄

琵琶湖のほとりに暮らしながら、これまで訪れる機会のなかった海津の「湖里庵」を、ようやく訪ねた。

かねてより、作家・遠藤周作氏が「美味しい鮒寿し」を求めて辿り着いたのが先代・魚治であり、その味と、旧湖里庵から望む琵琶湖の景色に魅了された氏が、自身のペンネーム「狐狸庵」をもじって名付けられた——そんな由来を耳にしていた。

もっとも、鮒寿しに対しては少なからず距離があった。塩漬けにした魚を炊いた米に漬け込み、酢を使わず乳酸発酵によって生まれる独特の酸味。強い香りとクセのある味わいは、どちらかといえば酒肴や珍味の印象が強く、下戸の私にとっては「ぜひ訪れたい」と思う料理ではなかった。

しかし、余呉湖の「徳山鮨」と並び称される「湖里庵」を知らぬまま、びわ湖のほとりに暮らすのもどこか物足りない——そんな思いが芽生え、今回の訪問に至った。

玄関は意図的に照度を落とした設え。期待を高めながら食事処の大きな扉を開けると、視界いっぱいに琵琶湖が広がった。思わず声が漏れそうになるほどの絶景。見慣れたはずの湖が、まるで一幅の絵のように整えられている。後になって気づいたが、この日の料理はすでにこの風景から始まっていたのだ。

遠くには、咲く直前の紅を帯びた海津大崎の桜並木。人影のない湖面には、穏やかな波音と、水に乗るオオバンの姿。どこか遠くへ旅しているような感覚に包まれる。

この日は幸運にも客は私たちだけ。オーナーの左嵜さんから、鮒寿しについてじっくりと話を伺うことができた。

「個人で作られる鮒寿しの方が鮒鮨やさんで求める鮒鮨よりも美味しと感じている」という私の言葉に、「それは当然です」と頷かれた。鮒寿しの発酵には人の常在菌が深く関わるため、湖里庵でも蔵に入る人は限られるという。空気中の乳酸菌、そしてその土地に棲む微生物が味を決める。
つまり、場所が変われば味も変わる。隣家で仕込んでも別物になるほど鮒鮨は繊細な世界だという。

この日のコースは「鮒寿し懐石」。小ぶりな古今鮨から始まり、彩り豊かな八寸へと続く。かつて抱いていた「鮒寿しは苦手」という印象は、ひと皿ごとに覆されていった。


漬け込んだ飯を取り除き、酒粕に漬け直したもの。旨味の強い尾の身を刻み、飯と和えた「とも和え」。鮒寿しを頭から尾まで余すことなく味わい尽くす構成であり、しかも使われる食材はすべて琵琶湖の恵みという徹底ぶりだ。

通常1年ほどとされる漬け込み期間も、ここでは2年。二度の冬を越えることで、酸味だけでなく、奥行きのある旨味とまろやかさが生まれる。

「和のチーズ」とも称される所以を実感したのが、鮒寿しを使ったパスタだった。濃厚でコクのあるソースは皿に残すのが惜しく、思わずパンを求めたくなる。その気持ちを見透かしたかのように供された小さな焼きたてのパン。聞けば、客の声からパンの提供を始めたという。

締めは出汁茶漬け。熱々の出汁の中で鮒寿しをほぐしながらいただくと、その旨味がふわりと広がった。

大きなガラス戸の向こうには、変わらぬ琵琶湖の風景。朽ちた桟橋さえも、この空間では一つの美として溶け込んでいる。

食事を終える頃、海津大崎の桜は、来たときよりもわずかに色を深めていたように見えた。

湖の恵みと発酵の時間、そして風景までも味わう——そんな贅沢なひとときだった。

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