旅ゆけば―観光編・五所川原市・斜陽館・疎開の家

青森を旅すれば「太宰 治」の存在は大きい。
太宰の代表作「斜陽」から名付けた「太宰治記念館・斜陽館」はさしずめ太宰ファンの聖地だろう。
その斜陽館は「津軽三味線会館」の目と鼻の先にある。
わざわざだったら行くかどうか分からない。
太宰は私の嫌いな作家である。
怖いもの見たさだろうか、ここまで来ると躊躇することなく私は「斜陽館」の入り口に立っていた。
斜陽館は写真で見ていた通り、豪壮な建物だった。
太宰が生まれる2年前に太宰の父がその財力に任せて総ヒバ造りで建てたと言われている。
方々旅すると豪農の館、北前船の館、豪商の館等々沢山見てきたが斜陽館は群を抜いていた。

驚いたのは、階段室だ。
私には公会堂の階段より立派に見えた。
太宰は、庶民の想像を絶する資産家の生まれだった。


この家に生まれた太宰にはこの家が重荷になったのだろうか。
繰り返す心中未遂、自殺願望、女性遍歴
私が嫌いと思う数々が太宰の中にはあった。

資料館から歩いて数分の所に太宰の「疎開の家」があったので、来たついでにと足を延ばした。
そして、それは大正解となった。
何故なら、少しだけ太宰への嫌悪感が薄くなったのだ。

この家は太宰の兄・文治夫婦の新居として建てられた津島家の離れで、かつては斜陽館とは廊下で繋がっていた。
奔放な太宰の行動に悩んだ兄の文治は戸籍から太宰を分家除籍(勘当)していたけれど、太宰はこの家に1945年(昭和20年)7月末から1946年(昭和21年)11月12日まで戦禍を逃れ、妻子を連れて疎開した。
太宰は、この家にに暮らしていた1年4ヶ月の間に23もの作品を書き上げた。

疎開の家にはガイドをされる方がいて、この写真の座敷で繰り返された近所の人や作家たちの集まりの様子を話してくれた。
解説を読むのと違い、ふっとガイドする男性が太宰かと錯覚するような解説で、「くらい」イメージの太宰の他の顔を見たような気がした。
太宰は多くの著書の中で人間の弱さを理解し、生きづらさに悩む人を励まそうとしている。のだそうだ。
私は読んでないので何も分からないけれど、未だに太宰は人気作家であることを思えば、魅力があるのだろう。
この場所が太宰文学への新たな入り口になってくれれば私の太宰嫌いは解消されるだろう。
勧められるままに「走れメロス」と「津軽」の2冊を買ってきた。                        

        

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