震災被災地の絆

東北震災の遺構を訪ねて以来「絆」と言う言葉に敏感になった。
昨夜のニュースで丸川珠代五輪相が、コロナの非常事態宣言が出されている時に東京オリパラを開催する必要性に付いて「コロナ禍で分断された人々の間にきずなを取り戻す」と、いとも簡単に「絆」を持ち出した。
東京オリパラは当初「震災からの復興」と言われ、いつの間にか「コロナに打ち勝った証」と変わっている。
それにしても、心のない大臣に都合よく使われる「絆」「東北」「コロナ」どれも魂がない。


        奇跡の一本松の背景、津波で壊されたユースホステル

かく言う私も、被災地に行くまでは「絆」の言葉は頭の中を素通りしていた。
けれど、震災遺構を前に、津波を経験した人たちの話を聞き、当時の写真を見ると今、目の前にいる人たちには奇跡が起きたとしか思えない。
ご近所さんと手をつなぎ、逃げる途中で波にさらわれ、翌日手をつないだ人の変わり果てた姿に出会い、生きた命を攻める気持ち。
家族の生死も分からなかった数日間。
再会出来た喜びと、失った悲しみと、ごちゃごちゃになりながら被災者同士が硬く結ばれたそれを「絆」とよぶのだと胸に刺さるように感じた。

家人の喜寿の記念に選んだ旅先は、震災から10年目を迎えた被災地だった。
方々に非常事態宣言が出された事でかなり躊躇したけれど、車での二人旅なので安全性を確保出来る(はず)と言う事で連休明けに出発した。
被災地はどこも閑散と人出はなく、予約者リストは私たちの名前だけが書かれていた。
「遠くから、よう来て下さいました」と迎えられる。
「こんな時に来てしまって、申し訳ありません」と身を縮めると「来て下さって嬉しいです」と笑顔で出迎えてくれた。⇒

震災の被災地に行こうと思っても、何処に行けば良いのやら、手探りの計画だった。
北陸道で新潟へ、そこから女川を目指した。

女川の復興⇒

女川、南三陸、気仙沼、宮古と巡るうちに計画変更で夜中にメールで予約を得るようなことにもなった。
現地の語り部さんも住む地域で感想が異なり、震災以前の職業で異なり、町ぐるみの計画の違いがあった。
若い男性が「復興は理不尽だ」と言った言葉が耳に残った。
「あの日、この町の人は等しく全てを無くした。自分はパンツすらなかった。けれど、復興のスピードは全く違った。早い人はいち早く、遅い人は未だに復興出来てない」
震災遺構は沢山の人を失ったところ、沢山の人が生き残れたところで、保存に関する考え方が違う。
「見たくない、壊してほしい」
「震災を風化させてはいけない残しておきたい」
段々壊される傾向にもあるようだ。
今行けて良かったと思う旅だった。

話せば長くなりそうなので追々に書いていきたいと思っている。

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