避難-それぞれの事情3

気仙沼向洋高校の校舎は『気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館』として、震災当時のまま保存されている。
震災の記憶と教訓を伝え、警鐘を鳴らし続ける「目に見える証」として、2019年3月に開館した。
気仙沼は、津波とその後の大規模火災による死者1152名、行方不明者214名を出している。

向陽高校は、水産高校として100年以上の歴史を持ち就職率も良く、地域の自慢の高校だった。
校舎は海岸から約500m、標高1mの低地にあった。
地震発生直後、生徒約170人は避難誘導した教職員27人と、近くにある海抜8メートルの地福寺を目指した。
その後「ここでも危ない」と判断し、海抜16mある「陸前階上」駅まで移動。そこからさらに高台の階上中学校海抜32mに向かった。
到着したのは地震発生の約45分後、移動距離は2kmを超えた。
海に近いという立地もあり、日頃から防災意識が高かったことが功を奏した。

校舎に入ると、1階の保健室は備品の大半が流され、代わりに校長室にあった椅子が転がっている。

校舎の屋上に立つと、目の先に海が見える。
この校舎は4階の床25cmまで津波で流されたが、どうにか校舎の外郭が保存されている状態だった。
校舎前の広い土地でパクーゴルフに興じる姿がある。
その場所は大きな焼却施設があって、震災廃材を燃やし続けた場所であるとは想像できない。
トップpicは、冷凍工場の建物が西側4階角に激突した痕である。
校舎に残っていた職員と改修工事中の作業員は一番高い塔屋に登った。
海側に2棟の大きな冷凍工場があったために津波の勢いが弱まり、津波は屋上まで到達しなかった。
しかし、冷凍工場はその後、校舎の西側階角に激突して、コンクリートの壁は大きく削られていた。
衝突場所が校舎の中央だったらと思うとゾッとする。
不幸中の幸いであった。

屋上からは、屋根が流失した体育館などを見下ろせる。

北校舎と総合実習棟の間では、がれきの上に車が折り重なっていた。
この場所には家屋ごと2人が流されて、がれきの間に引っかかる状態で止まっていた。
塔屋に避難した先生たちは、その後改修工事中の校舎に移動して一夜を明かすことになったけれど、家屋ごと流された2人に気付くと、2時間おきに2人組で一晩中声をかけ続けて励ました。

私たちに校舎内を案内して下さったKさんも、朝ごはんを一緒に食べたご両親、奥様を指定された避難地で亡くされた。
Kさんは10kmほど離れた工場に勤務していたために、津波は経験していない。
家族は気になるが、職場放棄できない立場があった。
「自分が今から行っても、避難していれば助かるし、ダメなら今更」と覚悟して仕事を優先させたそうだ。
ところが10㎞先でも想像できない津波の規模に、家に帰った時に家族の姿はなかったそうだ。
その頃の心情を書いた冊子を「良かったら」と1冊下さった。
読み始めると停められない一気に読んだ。
仕事、家族どちらを取るのか。
家族が無くなって働き甲斐は何だったのか。
被災した工場と本社との温度差。
原発事故の時に現地と官邸のやり取りを見たことがあるが、Kさんの職場も、まさにその通りだった。
Kさんは工場長の重職だったけれど工場再開後に職場を去った。

kさんの冊子から
今回の東日本大震災の記事においては、会社、仕事に関する事だけでなく、私の家族、生活面の事についても敢えて紹介させていただきました。
家族に関する入力時は、フラッシュバックし、流石に辛かったです。
何故、紹介したかと言うと、
何のために働いているのか?!
会社の目的は利益を上げること!そしてその一部から社員の給与、賞与等の報酬をもらう!
その報酬によって
”家族が安心し幸せに生活できる””楽しく、豊かに暮らせる”
だから、やり甲斐を求め、一生懸命頑張る、昇格、昇給を目指す・・・。
この当たり前のことを、同じ生活を続けていくと忘れがちになってしまいます。私としては普通に幸せな家庭生活でしたが、結果的に今回の大震災によって、家族を失ってしまった結果としては、会社で働く本来の目的を軽視し過ぎ、”家族を守る”という根本的な部分に欠陥があったという事だと思います。

Kさんの家は流されて、その家のすぐ近くに新しい家を建てられた。
どうして、同じ場所にとの疑問はこの冊子を読んで理解できた。
Kさんは家族の思い出の土地に居たかったのだと。

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