2011津波・宮古市田老地区-岩手県

震災遺構を訪ねる旅の最後は宮古市田老地域になった。
田老は「たろう」と読み、地名の可愛さにクスっと笑いたくなる。
しかし、呼び名とは裏腹に、田老地域の津波はどこの地域よりも悲惨だった。


 旧たろう観光ホテルより

この地域には「万里の長城」と呼ばれる大防潮堤があった。
田老の語り部さんに一番最初に案内されたのは高い高い防潮堤の上だった。
1978年に、長い時間をかけて造られた高さ10m全長2.4kmの巨大なX字形の防潮堤が完成した。
現在は、過去の防潮堤はそのままにして、さらにその海側に14.7mの新しい防潮堤が建設されていて、高さ10mの防潮堤の上に立っても、その向こうにある海は一切見えない。
「夜でも逃げやすいように」と、街も碁盤目状に造り替えられ、山際には避難階段が整備された。
年1度の避難訓練にも力を入れ、ハード・ソフト両面で防災対策を講じてきた。
高い防潮堤は、国内外の注目を集め、昭和三陸津波から70年となる2003年3月3日には「津波防災の町」と宣言した。
高い防潮堤を造ったのは、過去に何度も津波を経験している経験からだった。

平成23年(2011年)の東日本大震災津波の最大波高17.3メートル、
明治29年(1896年)の明治三陸大津波の最大波高15メートル、
昭和8年(1933年)の昭和三陸大津波の最大波高10メートル

ただ、結果的にほとんど人が住まない地域に防潮堤が整備されるという事態になった。
津波で浸水した地域の多くが、住居が建てられない災害危険区域に指定されたからである。
漁師は海から遠く離れた高台では漁も出来ず、田老を去っていった。
宮城県の女川では防潮堤を造らず、土地をかさ上げして、背後の山を削り住宅は高台に移した。
田老地区で女川が羨ましいという声も聞いた。
今回語り部さんの話を聞きながら果たして防潮堤は命を救ったのか、命を奪ったのか。
10mの防潮堤を津波が越えて来るはずはないと、家から動かなかった人々は壊滅的な犠牲を負った。
「逃げよう」と誘う人の手を振り払い、家に鍵をかけて籠った人もいたそうだ。
10mの防潮堤で津波に気付くのも遅れた。
防災の放送は3mの津波が来ると知らせた。
「3mなら心配ない」と思うのは当然だろう。その後は停電の為にテレビは見られず、新しい情報がなかった。


地域にただ一つ残った建物「たろう観光ホテル」の内部に入った。

1階2階部分は鉄骨部分を残すのみ。
津波の凄まじさを体で感じる場所だ。
津波の前に、人間はひとたまりもない。
「高台に逃げる」
これしか助かる方法はない。
このホテルのオーナーが海を見ると巨大な津波が見えた。
「逃げてー」と叫び続けても声は届かない。
その時、オーナーは津波の映像を残した。
この場所まで来た人に見てほしいと提供されたものだそうだ。
この部屋から遠くに海が見えるけれど、防潮堤で海のそばにいるという実感のない場所だった。


     田老にある三陸ジオパークの三王岩

三陸復興国立公園にある数多い奇岩景観の中にあって最も圧巻で、高さ50メートルの通称男岩の両側に女岩、太鼓岩が寄り添い、真下に立つとまさに圧倒されんばかりの壮観さがあります。
1億年もの歳月をかけて、寄せ返す波と海原を吹き渡る風が形作った美しい自然の芸術品です。
砂岩とれき岩が水平なしま模様の岩肌には、はるか昔、白亜紀の記憶が封印されているかのようです。(宮古市市報より)

案内して下さった語り部さんは、三王岩まで逃げて難を逃れた。
是非見て行ってと言われて来てみると、風光明媚な景観で、田老の町からすぐ傍の高台だった。
防潮堤を信じる、信じないは命を分けたように思えてならない。

今日で被災地のブログは終わります。
私にとって、書くのも辛いブログでした。
最後まで読んで頂いてありがとうございます。

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