初めて訪れた聖衆来迎寺 ~「近江の正倉院」と呼ばれる宝物の寺~

JR湖西線の比叡山坂本駅から湖岸に下り、国道161号沿いに「下坂本比叡辻」という地名がある。その一角に位置するのが、天台宗の名刹、聖衆来迎寺である。この寺は、恵心僧都源信が修業した場所であり、天台浄土信仰の拠点として知られている。私がこの地に住み始めてから、すでに半世紀近くが経つが、今回初めて聖衆来迎寺を訪れる機会に恵まれた。

訪問した日は、年に一度の「虫干し」の日であり、寺宝が公開される特別な日であった。数々の貴重な宝物を目にすることができた今回の訪問は、最近学び始めた日本史講座の校外学習の一環であった。
それほど大きな期待はしていなかったので、実際に寺を訪れて驚愕した。聖衆来迎寺は、その宝物の豊富さから「近江の正倉院」とも称され、国宝1件と国指定の重要文化財18件を擁するほどの名寺であることに驚かされた。

これらの宝物は現在、文化財保護の観点から東京の国立博物館など5か所に分散して保管されているが、8月16日にはこれらが「里帰り」し、寺で公開されるという。
この寺に宝物が多く残っているのは、信長の比叡山焼き討ちを免れたという理由がある。この寺が無事であった理由として、境内に坂本城三代目城主・森可成(森蘭丸の父)の墓所があったことが伝えられている。森可成は、信長の重臣として浅井・長政の軍勢と「坂本の戦い」で戦い、討ち死にした武将である。また、境内には歴史ある建物が多く残されており、山門はかつて明智光秀が城主を務めた坂本城の裏門が移築されたものだという。


中でも有名な宝物に「六道絵」がある。六道絵とは、仏教で説かれる六道の世界を描いた仏画で、地獄変相の一つである。この日は複製が15幅展示されていて、閻魔大王を中心に地獄にある難行苦行の有様が描かれていた。客殿には実物の三幅が掛けられていたが、遠目には黒く見えるだけで、詳細を確認することは難しかった。

さらに、2020年7月には来迎寺に伝わる涅槃図の裏側に新たな発見があった。涅槃図の裏面には、男女六人の戒名が記されており、その中には明智光秀の妻・熙子(戒名「福月真祐大姉」)が含まれていた。このことから、熙子が天正九年(1581年)の秋分の日までに既に亡くなっていたことが確認されたのである。

また、鎌倉、室町、江戸時代にそれぞれ造立された仏像も見ることができ、その歴史的価値には圧倒された。しかし、猛暑の中で広い境内を巡るのは、なかなか大変な体験であった。

これほど素晴らしいお寺の存在を、今まで知らなかったことを少し悔やみつつも、今後は折に触れて少しずつ聖衆来迎寺について理解を深めていきたいと感じている。

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