初・沖縄旅行 – 座喜味城跡

残波岬観光の後は近くの座喜味城跡に向かった。
入り口のあたりに広い松林が広がっている。
友人の話では琉球松だとか。
針葉は内地より長ぼそく柔らかそうに見えたが、さてどうだろうか。

人影もなく、雨後の匂いが残る松林はしっとりと心地よかった。
松林を抜けた先に石組みの城壁が優美な曲線を描いて現れた。


座喜味城がつくられたのは、1420年代
尚巴志(しょう・はし)が琉球王国の初代国王となった頃、国王に対抗する勢力を監視する目的で有力な地元領主の按司・護佐丸(ごさまる)によって築城された。


座喜味城の正面の城壁は、波打つように大きくせり出ている。
これは、攻めてきた敵を倒すための工夫で、身を乗り出さなくても下の様子が見え、多方向の攻撃にも有利だった。
城の中は、突き進むと行き止まりの袋小路となって、敵をあざむき攻撃を加える仕掛けがある。
日本のお城にも残る武者隠しの様だ。


城壁の曲線と幅の厚みは、戦のためだけでなく粘土質の赤土という弱い地質の上に築かれている関係で、弱い地質を補って崩れにくい構造にするための工夫でもあった。
石積みは一見、大津市坂本に見られる野面積かと思ったが、一部には野面積を残すも石を削って組み合わせる相方積や布積が使われている。


城壁の中に入ると、東京の高校生が修学旅行で来ていた。
「修学旅行が出来たんだねー」と添乗員さんと私たちは喜んだ。


城壁の上に登れるのはここと中城城だけで、この座喜味城跡の最大の見どころは、沖縄戦の戦禍を逃れた、沖縄に現存する最も古い石造りの二の郭のアーチ門。
座喜味城の城門アーチは、門の強度を高めるために真ん中にクサビ石があるのが特徴。
これは他の城には見られない座喜味城独自のもので、護佐丸の築城技術の高さを表している。


「世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアム」は休館日で入れなかったが、会館の前庭に珍しいものが並べられていた。
「厨子甕」と呼ばれるもので、沖縄の伝統的な骨壺。
火葬が一般的ではなかった沖縄では風葬とした。
遺体の周りを石で囲って風化させるという埋葬方法で、風化に伴って骨になったら、遺骨を洗浄して骨壺に入れて、その後再び石室に納骨するのが習わしだった。
そうした関係からか沖縄のお墓の大きさには驚かされる。

何とか、雨をよけて一日目が終わった。
朝の交通トラブルに始まり、長い一日だった。

琉球王国
明治12年(1879)日本政府が軍隊300名余と、警官160余名を派遣して首里城に入城、城を明け渡させて、廃藩置県を布告します。このような強制的な形で、琉球は日本の領土になるのです。
この事態に、清としても、琉球は自国の冊封国であるから勝手なことをしては困ると抗議します。この際、琉球は清、日本、どちらのものかという議論になるのですが、結論が出ないまま明治27年(1894)に日清戦争が勃発、日本が勝って台湾の割譲に成功します。台湾が日本の領土になる以上は、その間の琉球や奄美諸島など南西諸島はもちろん日本の領土ということになったわけです。
山本博文(東京大学教授)

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