他力本願‐親鸞
京都国立博物館で開催されている「親鸞‐生涯と名宝」に行った。
宗教について深く考えたことは無く事実上「無宗教」の私には、とても為になる展覧会だった。
「親鸞」や「法然」などは歴史上の人物で織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と同じラインに並ぶ遠い存在だった。
音声ガイドを頼りに進むうちにいつの間にか人間親鸞に魅せられていった。
親鸞は「教行信証」に自分の考えをまとめて著わした。
内容は「念仏を称えれば浄土に行くことが出来る」と言う「念仏往生」に関する内容で親鸞の直筆でち密に書き込まれている巻物を見る内に、木像のように感じていた親鸞が血の通う人物に思えて来た。
9歳から20年間比叡山で修業をしたけれど煩悩から抜け出せず苦しんだ末に聖徳太子が開いたと伝わる京都六角堂に100日籠り95日目に聖徳太子が夢枕に立ち「『法然』のもとに赴いてその法を聞け」というお告げがあり、「法然」を師としてあらゆる人の助けになる浄土の教えに出会った。
法然上人が、京都東山に草庵を結び、阿弥陀仏の本願を説かれるや、農民、町民、武士にいたるまで、あらゆる階層の人々が群参するようになり、それは既成仏教教団のねたみと反発をかう結果になった
当時の仏教界を牛耳っていたのは、奈良の興福寺(法相宗)と比叡山の延暦寺(天台宗)だった。
ある時、法然上人の弟子が、念仏集会を催したところ、後鳥羽上皇の女官数名が、その集会に参加し、念仏こそ私たちが救われていく教えであると確信し、髪をおろしてしまった。
それがきっかけになり承元元年(1207)に風紀を乱すものとして後鳥羽上皇により念仏教団は解散させられた。
念仏集会を開催した住蓮・安楽ら4名を死罪に、法然上人をはじめ七名は流罪。
その時に親鸞は越後に流罪となった。これが世にいう「承元の法難」で仏教史上、類をみない弾圧事件となった。
法然上人は75歳、親鸞は35歳だった。
益々人間臭い親鸞に興味がわく
4年間で流罪は解かれたが、その後は関東で教えを広めた。
52才までに「教行信証」を完成させて60才で京都に戻る。
一番驚いたのは、84才の時に息子の善鸞を義絶していた。
善鸞は「私だけが真実の教えを知っている。みんな今まで父から聞いていたものとは違う。私の知っているのが本当の父の教えなのだ。父が夜、ひそかに私一人に教えてくれた秘法だから。」
と、異なる教えを広めたからと言われている。
その後90才で没した。
今日のタイトル「他力本願」を私は今日まで勘違いしていた。
今までは悪い事のように聞いていた「他力本願」は浄土真宗では自力を使うことなく他力に頼れと説いている。
他力本願の本来の意味は、「阿弥陀仏(阿弥陀如来)の差し伸べてくれる救い(他力)によって信心がなくとも誰もが往生できる」という教え。らしい。
何と有難い。
無宗教だと言いつつも自分の葬儀は「神式かキリスト教か仏式かどうでもいいけどー」と曖昧にしてきたけれど親鸞を身近に感じる今日は仏教がいいかな。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。