内子町歩き

内子の商家は夜が早い分、朝は早い。
宿泊者の特権か数時間すると大勢の人で溢れる道は空いていて、朝の清々しい空気が充ちていた。

内子町は木蝋で栄えた町である。
木蝋の使途は「和ろうそく」と単純に思うのは私の早とちりで整髪料、クレヨン、色鉛食料、医療品や口紅などの化粧品のほかトナー、インクリボンCDなどのOA機器と多方面に使われている。

内子町には木蝋で成功した豪商本芳我邸(ほんはがてい)が残されている。
漆喰塗籠の重厚な建物は、鏝絵や海鼠壁などで飾られ、町並みの中でも圧倒的な存在感がある。
明治22年(1889)に建てられた本芳我家の屋敷は国の重要文化財にも指定されている。

本芳我邸を建てた芳我弥三右衛門は、晒蝋の量産製法である伊予式蝋花箱晒法を考案し内子発展の基礎を築いた人物。
芳我弥三右衛門の編み出した製法により木蝋の生産量は飛躍的に増大、本芳我家は木蝋の生産と海外輸出で財を成し、内子随一の豪商として発展した。
しかし木蝋生産は明治40年代をピークに大正に入ると価格の安い石油系のパラフィン蝋が台頭して木蠟は衰退した。
木蠟が衰退したから内子の町並は保全されたと言う説もある。
もし繫栄していたならばビルに建て替えただろうと。
前日に見学した内子座も木蠟で繁栄した町ならばこそと納得した。

本芳我邸の分家である上芳我邸は木蝋資料館として公開されているし、邸宅内部の見学も出来る。
邸宅の保全、木蝋資料館等の展示が素晴らしかった。
明治時代にタイムスリップしたような建物内部と木蝋の制作過程の見学に1時間以上は必要で内子のもう一つの伝統工芸の和紙工房はパスしてしまった。

屋根裏に届く大黒柱や、大きな梁も見学出来た。

別棟の資料館

木蝋のできるまでを丁寧に映像で説明して、その時の道具も展示されていた。
晒蝋の量産製法である伊予式蝋花箱晒法は特別興味深かった。
資料館の見学は是非にとお勧めです。

木蝋で和ろうそくを造る若い職人さんのお店
若い店主の奥様はてきぱきと要領よく和ろうそく造りの過程を説明された。

創業当時の和ろうそくと説明された。
明治より前のものらしい。
和ろうそくの風格に目覚めてしまった。

京都伝統工芸大学校で竹工芸を学ばれたというご夫婦のお店があった。

竹工藝に弱い私はついつい引き込まれた。
オーダーから1年後が納期になるらしい。ゆっくり待つのも楽しみだからざる篭をお願いした。

内子の重要建造物は、目を見張る風格があった。
このような町に行ったら連泊しなければ勿体ない。
今回は1泊で失敗した。
出直すには遠すぎるけれど、後ろ髪を引かれる町並だった。

 

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