歴史は夢の中で繰り広げられるもので、ある

歴史の授業は眠くなる。これは一種の世界共通現象ではないかと思う。
そして今日、私はその実例となった。
午後から歴史の勉強に赴いたのだが、会場に着いた頃には既に席の大半が埋まっており、空いていたのは一番後ろの席のみ。やむを得ず、そこへ腰を下ろした。
ここで問題となるのは、「一番後ろ席の魔力」である。先生の声は遠く、白板の文字も視力検査のようにぼやけている。にもかかわらず、隣の席からは、ノートをとっているようで、サラサラとペンが紙を走る音の気配が聞こえてくる。
この音がまた実に心地よい。まるで小川のせせらぎか、焚き火のぱちぱちとした音か。そんな白昼夢的な雰囲気の中、私は気づけば心地よい眠気に包まれていた。椅子から落ちることこそなかったが、軽く船を漕ぎ、時折ふわりと夢と現実の間を行き来すること1時間半。
学びとは、必ずしも覚醒しているときにのみ行われるものではないのだ。夢の中で聞いた「伊藤博文」の名が、何か意味深な響きをもって脳裏に焼きついた気もする。これは一種の潜在学習である。かもしれない。
歴史の重厚な響きは、私を眠りに誘う。だが、それはけして退屈ゆえではなく、時代を越えた安心感のせいなのである。そう、自分がこの世に生まれる遥か以前の話を、ただ聞いているという解放感。何をしても結果に影響はなく、ただ知っているだけでよいという心地よさ。
というわけで、今日の勉強は、半分は夢の中で行われた。それもまた一興である。
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