松本の醤油蔵で出会った、情熱の人と濃い時間

9月の松本は朝から暑さを感じる日だったが、そんな中、私は明治38年創業の「大久保醸造」を訪れることにした。普段は通らない山野辺の道を進むと、その店舗は、大きな工場ではなく、家族と少人数の従業員が手作りで醤油や味噌を丁寧に作り上げている小さな醸造所だった。

たまたま庭先にあった配達用の車を目印に見つけたその場所で、私たちは大久保醸造の社長、大久保さんと出会うこととなった。「金は医者代に払っちゃいけねえよ。そんな金があったら安全で、体に良いものを食ったほうが良いさ」と、食の安全について情熱的に語り始めた彼の話は、驚くほど分かりやすく、すぐに共感が生まれた。

醤油タンクのある醸造蔵の中に案内され、漆塗りの大きな木樽を見せてもらった。見上げるほど巨大な木樽の内部と外側は彼が8年かけて自分で漆を塗り続けたという話に感動せずにはいられなかった。
木樽はワイン樽のように横倒しに並んでいた。樽は縦置きで上からかき回していると想像したけれど、ここにも大久保さんの知恵が生かされていた。
「お茶を入れるよ」と自宅に招き入れられると、そこも漆塗り。
食の安全は水の安全、以前に高野槙の風呂桶が黒ずんだ時に漆を塗ると、水の濁りが無くなったから「これはいい」とピンときたそうだ。

大久保さんは家族の健康のため、自ら畑で野菜を育て、全て自給しているという。
途中から参加された奥様のつけたお漬物が美味しくてレシピを頂いた。昆布の佃煮は大久保さんのお手製で、あれもこれもとお味見するうちにテーブルは小皿が並んでしまった。
「食の安全に情熱を傾ける人の作るものは美味しいに違いない。もし美味しいと感じなかったなら私の舌が化学調味料に侵されていると思って間違いない」というのは私の信念だ。

そして買い物の話になると、彼の優しい販売スタイルがまた印象に残った。
味噌を試したいと言うと、迷わず「玄米味噌」を推薦した。玄米は正直だからね、体にいいものと言えばこれに限るさ。そうか初めてかい、だったら500gが良いだろう」
初めての購入者には少量で試してほしいと考える姿勢が感じられ、誠実さが伝わってきた。
甘露醤油は手間のかかった醤油、すき焼きや煮魚にはこれがいいねえ、あと一つお薦めするとしたらこの「すだちのポン酢」だね。瓶の首の所にすだちのかすがついてるだろう、これが付いたないとだめだよ」

買い物自体は短時間で終わるはずだったが、びわ湖や比叡山、坂本城、明智光秀に興味をお持ちで、話は尽きない。
さて、失礼しましょうかという頃になって、アンティーク家具を指して「これ何に見えますか?」と聞かれた。
「蓄音機では?」というと我が意を得たりと暫くは懐メロ談義が続き気が付けばお昼になっていた。
 
大久保さんとの出会いは、醤油を買う以上の体験だった。麹の話や醤油の製造方法等々話の端々で知らない事を色々教わったけれど、中身が濃過ぎてここに書けるほどの理解の域には達していない。けれど「金は食べ物に払うべきだ、医者に払うなんて勿体ない」という言葉は、私の心に深く刻まれた。そして、彼の情熱的な仕事への姿勢は、現代において忘れがちな本物の食の大切さを教えてくれた。

松本の旅は、予定外の学びと温かい人々との出会いに満ちた濃い時間となった。

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