「芸のうどん、笑いの湯気」〜桂吉弥『かぜうどん』

落語における「食べる」という行為は、実は非常に難しい。
器はない、箸もない、うどんも当然見えない。けれど観客は、目の前に熱々のうどんがあるかのように錯覚する。
それを可能にするのが、落語家の所作と間、そして音である。

昨夜の「ほたる寄席」の高座では、桂枝雀師匠ゆずりの名作『かぜうどん』がかかった。
演者は桂吉弥さん。その芸に、すっかり魅せられてしまった。

このネタのクライマックスは、何と言っても「うどんをすする場面」である。

吉弥さんの手が、そっと見えない器を持ち上げ、扇子をふっと浮かせると、目の前には確かに湯気が立ちのぼるような錯覚が生まれる。
ツルツルズズズーッ!と小気味よくすする音、口元を押さえながらふうふうと冷ます間合い。
一口すするごとに「あちちっ」と肩をすくめ、まるで熱のこもったうどんの湯気がこちらまで伝わってくるようだった。

話の筋は、売れないうどん屋が天秤棒を担いで路地を歩いているというもの。
そんな時に、小声で「うどん10杯」の注文が入る。
「こんな時分に、大の大人が10人も集まっている――これは人には知られたくない事をしているに違いない」と思ったうどん屋は、「だから声を潜めて注文したのだ」と解釈する。

味をしめたうどん屋は、次に呼びかける客の小声もまた10杯の注文に違いないと目論む。
「うどん、ひとつ」
それに応じて、うどん屋も思わず小声で「へい、うどんひとつー」と囁き返す。

しかし、期待に反して出たのは1杯だけ。
「なるほど、今日は味見。次は10杯の注文が入るはずだ」と気を利かせ、さらに声を潜める。

すると、客が「うどんや」と呼びかける。
期待どおりだと喜んだうどん屋が、「ヘイ」と返事をすると――

「風邪でもひいたんか?」

これがオチになるわけだが、その笑いを支えているのは、まさに「うどんを食べる芝居の緻密さ」に他ならない。

ただのうどん一杯。されど、演じ方ひとつで、ここまで観客を引き込むとは。
見えないものを「見せる」落語の力。
そして、聞こえないはずの「湯気の音」まで感じさせる桂吉弥さんの芸に、ただただ感服した夜であった。


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