大橋鎭子の影を追って

大橋鎭子が九十歳にして初めて著した自伝を読み始めたとき、睡魔はたちまち消え失せ、一睡もできないまま読み耽ってしまった。それほど深く、心を打たれた。
『暮しの手帖』は、子供の頃から常に傍らにあった存在であり、今日に至るまで自分にとっての愛読書である。
広告を載せず、公平で誠実な記事を貫く雑誌――花森安治と大橋鎭子が創刊したその姿勢には、かねてより敬意を抱いてきた。
しかし、いま書こうとしているのは『暮しの手帖』という雑誌そのもののことではない。
大橋鎭子という人物の「生き方」についてである。
彼女は東京・青山に、実業家の父を持つ裕福な家庭に生まれ、何不自由のない少女時代を送った。
東京女子高等師範学校を卒業し、日本女子大学に進学するが、時代はやがて戦争へと突き進み、平穏な暮らしは終わりを告げる。
戦後、父を肺結核で失い、家族は経済的に厳しい状況に置かれた。
余談ではあるが、父親の葬儀の時に配った弁当が翌日手つかずのままゴミ箱に大量に捨てられていた。その時の失望とショックは彼女を長く苦しめた。
大橋は学業を断念し、家族のために働くことを選んだ。
母と妹たちの生活を守ることが、何よりも優先すべきことだった。
自分のためではなく、誰かの暮らしを支えるために、彼女は自立の道を選び、黙々と歩み始めた。
当時、女性が職業を持ち社会に出ることはまだ一般的ではなかった。
そのなかで彼女は出版社に入り、編集という仕事に就く。言葉と向き合い、暮らしと向き合う日々が始まった。
東京大空襲、戦後の混乱、深刻な食糧難――次々と襲いかかる困難にも、大橋はその都度、心を奮い立たせて立ち向かった。
その姿勢は、彼女自身の書く丁寧な文章の端々からも映像のように立ち現れる。
両親の教え、親戚の支え――そうしたものが彼女の栄養となり、静かで芯のある強さを育んだのである。
太平洋戦争下の防空壕の中で、家族を支えるために思いついた「知恵を売る仕事」は、敗戦後、平和が戻って、雑誌「暮しの手帖」として実らせた。
私は、大橋鎭子のようなたおやかな女性を他に知らない。
他者への敬意を忘れず、決して無礼にならないよう細やかな気配りを持ちながら、自らの主張は凛として曲げなかった。
『暮しの手帖』創刊にあたって出会った花森安治との関係は、彼女にとって多大な影響を与えた。
だが、その出会いも偶然ではない。そこに至るまでに彼女自身が築いてきた人とのつながりがあってこその出会いである。
自らの足で築いた人脈こそが、困難な時代において自分を助けてくれる。
それは、金銭でも権力でもない。
この本は、もっと早くに読むべきであった。
けれど、遅すぎるということはない。
せめて今からでも、大橋鎭子の歩いた影を、自分なりの道しるべとして進んでいきたいと思う。
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