どこで命を終わるのも運です。向田邦子の遺言

颯爽と生きて、突然に逝った向田邦子は家族に向けて「遺言状もどき」を残していた。
この本は向田邦子の妹の和子が身近に見た姉邦子を著わしたものである。

「万一の場合、次のようにして下さい」と言う文章で遺言書は始まっていた。
家族に宛てた私的なメッセージだから公開する予定はなかったけれど、邦子没後20年が経過した頃に、その文章に姉邦子の肉声がだまし絵のようになったり、暗号のようになったりしながら散りばめられていると和子は実感するようになった。
そして、この本を書くことになったきっかけは、遺言状から和子に伝わったのは「言いたい事があったなら、人生の別れが来る前に言うべきだ」と言う教訓だった。

「遺言状もどき」は複数枚あって、日にちも特定できない、ちゃんとした署名もはんこも無い、おまけに内容はつじつまが合わない、現実ともちがっている。すごい遺言状ではないか。
で、正式な遺言書ではなく「遺言もどきのメモ」と家族の間では認識されていた。
遺言状を読み比べると、時々の背景が浮かび、あれがあった頃だから、こう書いたとなると何年ごろだとか、前後の日付が符号のように合うのは家族の目ならばである。

旅行に出掛ける機会の多かった邦子は、出かける前に「何かあったらテレビの上にメモ書きを置いてあるからそれを見て」と言うのが常套句だったけれど、最後になった台湾旅行の時はそれが無かった。
邦子の青山のマンションは彼女の愛猫がいて、留守中は猫の世話で通っていたけれど、それ以外には一切手を触れずトイレも使わなかったと和子は書いている。
そんな訳で、印鑑や通帳の置き場も知らない家族にその置き場を教えてくれたのは邦子の仕事や資産を管理していた会社の方だった。
資産はともかく、遺書が書かれた背景の状況を思い出すにつれ姉邦子の家族に対する深い愛情が滲んでいることがしみじみと家族の心を充たしていった。

和子は「ままや」という小料理の店を邦子の後ろ盾で経営していた
「ままや」は和子には重荷になりそうな「赤坂」に邦子は強引に開店させた。
その時の事を邦子は「素人の泥棒は安全度を目安にするけれど、プロの泥棒は危険度ではかるっていうわよ」と説得している。
いかにも邦子らしいし言葉だけれど、大人しい和子が飲み込むのは大変だっただろう。
しかし、この場所を選んだのは正解でテレビ局や編集者が通い、みんな洒落てて、会話が面白く、雰囲気のいい人たちがお客になった。
なるほど場所は大事。
節々に経済的援助をしながら母親の面倒を見てくれるように上手く仕向けていったり、3匹の猫の猫性を守ってくれるように伝えている。

「1000万円は、チュリス氷川坂のローンを払って下さい。氷川坂は和子さんにゆずります。お母さんと住むことが条件です」

「馬鹿々々しいとお思いでしょうが、16年も一緒に暮らしたのです。生き物ですから。あまり淋しい思いをさせないでください。命を全うさせてやりたい。」
これは愛猫への思いを綴っている。

その文章の隅々に子供の頃から和子が知っている姉邦子の性格が見える思い出話がつづられている。
読者は、普段の向田邦子を身近に感じ、益々向田邦子の喪失を感じる。

「万一の場合」で始まる遺書もどきには事故を暗示させるような文章があった。
「どこで命を終わるのも運です。体を無理したり、仕事を休んだりして、骨を拾いに来ることはありません。」
そして最後は
「仲良く暮らしてください。お母さんを大切にして。私の分も長生きすること。」
と結ばれている。
読み終わると、何と見事な生きざまかとじぃーんと胸に迫るものがある。
私は、旨く遺言状など書けないから、向田邦子の遺書もどきの一文から

「どこで命を終わるのも運です。体を無理したり、仕事を休んだりして、骨を拾いに来ることはありません。」

ここを書き写しておこう。

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