流転の海 第9部 野の春 ‐ 宮本 輝

1週間ほど前に「流転の海 第9部 野の春」を読了した。
宮本 輝の執筆37年の大作である。
第1部を読んだのは何時だったのか記憶にないけれど、読み応えのある内容が心の中にどっかりと住み着いた。
9部読了するのに何年かかったのだろう。
次回がいつ上梓されるのかもわからず、書店に行ってはウロウロと探す事が5、6年いやそれ以上だったかも知れない。

この本は宮本 輝の父「熊吾」を描く大河小説であるが、宮本と同世代の私には時代背景が分かるだけに読書中は小説の中に生きているような錯覚さえした。
というのも、主人公の熊吾と私の父が似ているような気がした事も原因なのかもしれない。
九州男の父は私が成長するにつれて暴君のイメージがあったけれど、父の亡くなった年齢を過ぎた今は、気が小さくて、優しい人だったのかも知れないと、思うようになっている。

熊吾は50才の時に待望の子供を授かった。その子供が宮本 輝である。
人生50年と言われた時代に輝が成人するまで生きなければならないと熊吾は覚悟を新たにし、その後がこの小説の軸になったいる。
自分の言葉で、自分の背中で、いい事も悪いことも赤裸々に見せて、精一杯息子を育てた。
事業に失敗し、自分の利益より、他人の生活を心配し、他人に掛ける思いやりのある言葉の数々が沢山の人を救って来た。
女にだらしがないというものの、関わった女の人生が気になって仕方がなく、悪いと分かっていても女の元に帰って行く父の後ろ姿を見送る母と息子の姿。

※下記よりネタバレがございます。未読の方はご注意ください。

9部の中に忘れられないシーンがある。
熊吾がある日息子に語ったことば
「わしはお前が生まれた時からずーっと、この子はほかのだれにもない秀でたものがあると思うてきた。
どこがどう秀でちょるのかわからんままに、何か特別秀でたものを持っちょる子じゃと思いつづけてきたんじゃ。しかしそれはどうも親の欲目だったようじゃ。お前にはなんにもなかった。秀でたものなんか、どこを探してもない男じゃった。お前は、父親にそんな過大な期待を抱かれて、さぞ重荷だったことじゃろう。申し訳なかった。この親の欲目を許してくれ。

のちに熊吾は「よくもあんなひどい事が言えたもんだ。未だ二十歳そこそこの世の中にも出ていない我が子に親が言う言葉か」と悶々と苦しんでいる。
私がこれを言われたら、ホッとするだろうか。人生を諦めるだろうか。
宮本 輝は秀でたものを発揮した。

息子の成人を見届けた熊吾は桜の満開の日に静かに息を引き取った。
「なにがどうなろうと、大したことはありゃせん」は熊吾の口癖でその顔は「どうじゃ、たいしたことはありゃせんじゃろう」と語りかけているようだった。
熊吾を慕う人達が続々と駆け付けて14名の隊列になった。
その隊列を見た熊吾の妻の房江は、これと似た光景を見た事があると思った。
新たな旅へ向かう人々が何処かの原野を楽しげに出発する光景だ。

私はこの本の読書感想を書きつくせない。
長く書いても違う、短く書けば猶更ちがう。
読了後は次に読む本が見つからない寂しい日々である。

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