犬も歩けば歴史に当たる| 福沢桃介物語 – 岐阜県南木曾町

今から100年前、大正10年頃は、川を渡る手段は渡しだった。
そこへ、後に電力王と言われた「福沢桃介」が、建築資材の運搬路として橋を建設した。
橋は「美しく見えるように」と意匠を凝らし、川幅の最も広い場所に架けた。
長さは247m、木製補剛トラスを持った吊り橋としては現在も国内最大級、最古のものである。

この橋、見たさに木曽路を走った。
行くまでは「桃介橋」が目的地だった。
ところが橋の近くには桃介が木曽の拠点として別荘(現在は記念館となっている)があり、施設ガイドさんの話を聞くうちに電力王と美貌の女優や次々に出てくるきらびやかな人名は、橋以上に魅力を感じた。


桃介は、埼玉県出身で慶応義塾卒業後に福沢諭吉の次女、房の婿養子となることを条件に2年半のアメリカ留学をする。
帰国後、房と結婚して北海道炭礦鉄道に勤めたが結核になり仕事を辞める。
療養中に株式投資で財を成し、日露戦争に乗じて益々財力をつけ起業ブームもあって電力事業に乗り出した。


当時、主力だった火力発電所よりも発電能力が大きい水力発電所の建設が急がれる時で、桃介は木曽川に目をつけた。
桃介の大同電力と地元の間では水利権をめぐる激しい対立が起きた。
水利権が企業に渡ると木曽川で数百年の歴史を持つ木材輸送ができなくなること、川がダムで堰き止められれば魚が遡上せず漁業に影響が及ぶことなどを訴え、住人側代表として交渉に当たったのが島崎藤村の兄、島崎広助だった。
余談になるが、藤村は広助の次女島崎こま子との間に子供をもうけているが、広助の逆鱗に会い子供は養子に出された。

島崎広助は流域の各役場に一致団結を呼びかけたけれど、桃介の懐柔作戦にかなわず、「そこまでするなら」と手を引き、水利権を得た桃介は木曽川に7か所の発電所を作った。
水利権獲得を巡る住民の要望は、森林鉄道の軌道敷設による木材運搬、取水えん堤に魚道設置などで代替えされた。
桃介橋には橋の中央に資材運搬用のトロッコのレールが敷かれていた。
老築化した桃介橋は1993(平成5)年完成の整備事業で復元され、現在も町道として活躍。
建設当時のトロッコ用レールの痕跡を一部に残した。

桃介橋を渡っていると、下校中の中学生や高校生に出会う。
「毎日この橋を使って登校してるの?」と聞く私に「そうです」と元気に答えてくれた。


桃介には正妻房の他に公私ともにパートナーであった日本最初の女優・川上貞奴がいる。
桃介が東京の自宅で亡くなった時は房から貞奴に連絡が行き、葬儀の全てを仕切ったのは貞奴だったそうだ。

ダムの完成後貞奴は名古屋、桃介は東京で過ごしていたが「こんな事なら一緒に住めば良かった」と貞奴は嘆いたそうだ。
貞奴は16才で芸妓としてお座敷にあがり、日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かったので、時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった。
後に伊藤博文の媒酌でオッペケペの川上音二郎と結婚した。
音二郎の死後は、子供のころからの知り合いだった桃介と行動を共にして、ダム建設に情熱をかけた。


山の資料館から別荘に渡るモダンな渡り廊下


玄関わきの部屋

今でもモダンな洋館で当時はどれほど煌びやかであったことかと想像できる。
この家で桃介は、貞奴共々外国の賓客や、各地の名士を招待して度々パーティーを開いていたそうだ。
別荘は、今でも二人のエネルギーを感じるような気がする。

電力事業と女優貞奴との生活。
思いがけない所で藤村の名前が出てくる。
犬も歩けば歴史に当たる。

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コメント

    • 本間明子
    • 2022年 9月 01日

    一つの橋から 歴史の裏話が・・とても興味深く拝見しました❣

      • skog
      • 2022年 9月 01日

      本間さんコメントをありがとうございます。
      私たちがお世話になっている関西電力の前身の大同電機からのダムと聴いて興味を持ちました。
      仕事、それに絡む人間模様。人間臭さ。どれも面白かったわ。
      朝ドラに推薦したいくらいです。

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