旅に出たなら何食べるー伊那市こやぶ竹聲庵

旅先での昼食は、予約を入れることもあるが、今回は成り行き任せの信州行だった。途中でサンドイッチやアイスクリームをつまんでしまったこともあり、気づけば昼時は過ぎていた。

長野県伊那市は信州そば発祥の地とされている。ならば蕎麦屋にでも入ろうかと話しながら、権兵衛トンネルを抜けて国道19号線へと向かっていたとき、「蕎麦屋」の看板がふいに目に入った。左側の道沿いだったので、まるで吸い込まれるように駐車場へと車を滑り込ませた。

そこに現れたのは、藪深い中に凛と立つ趣ある門構え。ひんやりと風が違う。まるで狐に化かされたような気配すら漂う。いや、そんなはずはないと門をくぐれば、足元にはウッドチップが敷かれた小道が続き、その先に、私の好みにぴたりと合う古民家が姿を現した。

それが「こやぶ竹聲庵」であった。

この道は何度も通ったはずなのに、こんな店があったとは。まさしく突然、そこだけ異空間のように現れた蕎麦屋だった。

くぐり戸を頭を低くして抜けると、そこは靴脱ぎ場。中に入れば、大きな囲炉裏が迎えてくれる。座敷の外には、緑があふれるように降りかかっていた。ふと気づけばエアコンがない。それでも室内は自然の風が心地よく、涼しさに満ちていた。



もう蕎麦の味がどうこうというより、ここでしばらく昼寝をしたい。そんな気持ちにさせる、気持ちのいい空間だった。

頼んだのは、今回も鴨そば。温かい鴨汁とともに、蒸篭が二枚。なぜ一人前に二枚なのかと一瞬思ったが、それは野暮というものだろう。たっぷりの量であることに変わりはない。

帰宅後に「こやぶ竹聲庵」を検索してみたら、創業45年の歴史を持つ蕎麦屋だった。よく使い込まれた蒸篭から、長年の営みを感じていたが、なるほど納得である。地元の玄蕎麦を石臼で挽きぐるみにし、十割で仕上げた生蕎麦を提供しているという。

出てきた蕎麦は、黒く、しっかりとした歯ごたえがある。唯一、気になったのは鴨汁の入った丼の口縁が厚すぎて、唇にしっくりこなかったこと。湯呑みもまたしかり。私が普段、薄い器を好んでいるせいかもしれないが、使い勝手は少々惜しかった。

一方、笊を食べた家人は、出汁の美味しさに満足していた様子。私の鴨汁は、蕎麦湯で割るほどの濃さだった。

だが、そんな細かな不満すら、この空間に包み込まれて消えていく。あまりに落ち着いた雰囲気に「移築ですか」と尋ねたところ、返ってきたのは意外な答えだった。

「すべて新築でございます」

突然現れ、心に残った蕎麦屋との出会いを、忘れぬよう記しておこう。もしかしたら明日には跡形もなく消えているかも知れないのだから。

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