自由を奪われた足と、自由を求める心

つい一週間前までは、自分の行きたい所へはマイカーで移動するのが当たり前であった。買い物でも、友人とのランチでも、そこにはいつも自分の運転があった。

しかし、今は違う。右足は動く。アクセルもブレーキも踏めるし、運転自体は物理的には可能である。にもかかわらず、私はハンドルを握っていない。それは、もし何かあった時には「100%の責任がかかる」と言った家人の言葉が、心に重くのしかかっているからである。

無理をして事故でも起こせば、自分の後悔では済まされない。家族や相手の人生まで巻き込むことになる。そう考えると、自分でも運転を控える判断は正しいと思う。しかし、その「正しさ」が、どこかで自分の心を締めつけている。

幸いなことに、家人は運転代行のごとくどこへでも付き合ってくれる。そのありがたさは言葉に尽くせない。だが、自分のリズムで、ふと「今からお茶しよう」とか「ちょっとだけお店に寄りたい」といった気ままな外出が難しくなったのは、予想以上に堪える。

「友達とランチ」や「何気ない雑談」という、ごく普通だったことが、急に高いハードルのように思えてくる。相手に気を遣わせてしまうのではないか、自分も疲れてしまうのではないか――そんなことを考えているうちに、予定そのものを立てる気力が萎えてくる。

けれど、皮肉なものである。「出来なくなる」と、なぜか余計に「したくなる」。たいして用もないのに、外の空気を吸いたくなる。無駄とも思えた外出が、実は自分にとって大切な気晴らしであり、生きる実感を与えてくれていたことに、今さらながら気づかされる。

脚を怪我して、物理的な自由を失ったことよりも、その影響で心まで縛られてしまうことが、何よりも辛い。健康な時には考えもしなかった感情が、今は毎日のように胸をよぎる。

それでも、時間が経てばきっと回復する。そう信じて、今は無理せず、出来ることを少しずつ積み重ねていこうと思う。動ける日のありがたさを、心から噛みしめるために。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

skogBLOG内の記事検索

カテゴリー

過去の記事

生活・文化の情報収集

ブログランキングで生活・文化関連の情報を収集できます!
ページ上部へ戻る