2011津波-南三陸ホテル観洋の英断

防災センターと、国道398を挟んで反対側にある結婚式場「高野会館」は330名の命を救った。
午後2時46分、3階ホールでは地元の老人クラブの歌や踊りの発表会が行われ閉会式の最中だった。
大きな揺れと同時に停電、真っ暗になった.
急いで家に帰らなければと叫ぶ老人クラブの方々に会館のスタッフは4階屋上へと垂直移動を勧めた。
元漁師だった会館の営業部長が海を見ると、海面が大きく下がっていたため、「大きな津波が来るはずだ。外に出たら危ない」と判断した。
白いビルの屋上近くの青いプレートは津波の高さを示している。
当時は、避難していた屋上までヒラメが津波に飛ばされて来たり、体育館の屋根がぶっつかってきたり、想像を絶する光景だった。

現在この周囲はかさ上げ工事が進んでいる。

高野会館は「南三陸ホテル観洋」が所有する結婚式場だった。
震災遺構を訪ねる旅をすると決めて、旅程表を作ろうとしても、何処に行けばいいのか皆目見当がつかず3月くらいまでは、この計画はとん挫するかもしれないと思うほど手掛かりがなかった。
震災被災地のマップをググっている時に「ホテル観洋」の存在を知り、そこを手掛かりにすると急に計画がスムーズに動き始めた。
けれど、現地に行くまで「ホテル観洋」が震災時にこれほど貢献しているホテルとは全く知らなかった。

このホテルの創業者は現女将のお父様。
チリ地震大津波を経験していて、その教訓を活かして地震に強いホテルを建てようと、地盤の強い岩盤の上にホテルを建てた。
少し話がそれるが、ホテル創業者の自宅には近隣の大勢の命を救った螺旋階段があった。

自宅がある内ノ脇地区は津波で壊滅的な被害を受け、人が住むことのできない災害危険区域に指定された。
「命のらせん階段」と呼ばれる外階段は、1960年のチリ地震による津波で被災した創業者が、周囲に高台がない同地区の住民のため避難経路として震災の5年前自宅に設置した。
自治会で避難訓練を重ねていたことも功を奏した。
震災時に約30人が階段を使い屋上へ逃れ、命をつなぎ留めた。
市は住民が離れた同地区の移転跡地を利用して公園を整備しており、区画整理のため建物は取り壊される予定だった。
創業者の娘で、南三陸ホテル観洋の女将、阿部憲子さんは「私が父から教わったように、津波の教訓と、防災における自助、共助の大切さを後世に伝承したい」と保存を決断した。
市の協力を受け、自らも費用を負担して、約80メートル先の公園に隣接する市有地に建物を移設する。(jiji.comより)


                       朝夕部屋の手すりからおねだりするウミネコ
ホテル観洋は岩盤の上に建っていたので、地震の被害は周囲ほどひどくなかった。
館内にいた宿泊客は、高台の駐車場に誘導した。
女将は家族の安否確認より、宿泊客、従業員、地域の避難者の為の炊き出し等を優先して実施した。
ホテルも被害を受けたが、難を逃れた部屋にその日から町の避難者や、従業員の家族も含め、6か月間に亘り600名を受け入れた。その後も応援部隊やボランティアの受け入れを行った。

食べ物について当日は、お客様と住民の方々我々を合わせて350名程でしたが、これから先、近隣の方々ももっと避難してくることも予想されましたので最悪の状態が最低1週間は続くと考えて調理責任者に今ある食材で1週間分の献立をたてる様指示しました。
そして、3月17日にはお客様全員を無事にお送りすることが出来ました。(女将談話より)
当時女将は未だ40代の若さ、ご主人の副社長は気仙沼の会合へ、子供さんは学校へ行っていたので安否は数日分からなかった。

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